ラーゼフォンと難解さと親切さ
2012.12.12

何故?! いまさら「ラーゼフォン」なのか。それは本作品の主要要素である「マヤ文明」において、「マヤ・カレンダー」が2012年12月冬至付近で終わっており、作品内でも同時期にMU(ムウ)と呼ばれる別次元の民族(?)が世界の主要都市上空に突如出現し、地球支配を開始するというプロローグからはじまるためです。本放映(2002年)から10年が経過し、いよいよ(「マヤ・カレンダー」上の)終末の年ということもあって、新たなコンテンツの発表があるのでは、と勝手に期待していました……(HDリマスターBlu-rayボックスは2011年にフライング発売、CS放送ではTV版・劇場版と放映されましたが)。


個人的には、1990年後半から2000年代にかけて制作されたロボットアニメのなかで三指に入るほど(ほかは「ゼーガペイン」ぐらいですが)思い入れのある作品なので、そういった想いと先述の鬱憤を晴らす意味でも、この場を借りて語りたいと思います。尚、本コラムの内容は「ラーゼフォン」の各作品(TV版・劇場版・ゲーム版含む)を周知の上で進めてゆきます。詳細な説明を極力避けて書いておりますので、恐れ入りますが、予備知識のない方は各自情報収集をしつつの講読をお願いします(身勝手)。


さて、本作品は主人公の神名綾人(かみな・あやと)くんが神秘の巨人「ラーゼフォン」に乗って迫り来る敵・ドーレムをバッタバッタとなぎ倒すロボットアニメの要素と、世界の命運を握る主人公を中心とした人間模様、特に生き別れた恋人・遙(はるか)さんとの15年のタイム・ラグを埋める恋愛劇がメインとなります。

現実から目を逸らしてウジウジする少年を、年増のお姉さんがアメとムチをフル活用して矯正してしてゆく、そんな流れが大好きです(当時テレビアニメデビューだった下野紘氏を中堅どこの久川綾女史が指導して……みたいな背景も)。綾人の母(麻弥・マヤ)の思惑でできてしまった年の差を意識しながら、「世界」を救うという大義と個人的な感情の迫間でゆれ動く乙女心(?)。そう、遙さん無くしてこのアニメは成立しません。彼女の立ち居振る舞いに惹かれなければ、実際この作品にここまでの思い入れができたかどうか……。

正直、劇中で最重要課題とされた「世界の調律」やロボットパートが云々よりも、彼女の15年間想いつづけた気持ちが成就されるかどうか、その一点だけを注視していました。ですので、劇場版でよりクローズアップされ、最高のかたちでエンディングを迎えたときの満足感はとてつもなく大きかった。「世界を救う」大命題を抱えたお話は、大抵何かしらの犠牲のもと、悲劇的な結末を迎えてしまいます。本作品(劇場版)でも、遙さんの想いびと・綾人は調律後の世界には存在できず、時間と空間の迫間を漂いつづける存在となってしまいます。それでも、ときおりふと現実世界にあらわれてはふたりがもっとも想いを重ねていた姿で逢瀬を楽しむのです。 「調律」は「世界」を自分の都合の良いように書き換えられる、何とも身勝手なシステムですが、「記憶は美化される」ように幸福な、それもだれかと共有できた「記憶」があれば、ひとは強く生きてゆける、そんなことを感じました。

TV版のラストにしても、MUの出現と「世界の調律」が綾人に課されなければこうなっていただろう、と。周囲のひとたちとキチンと向き合った末に「調律」を行い、改変された世界でも同じように向き合えたこその結果が、画家となり遙さんとのあいだに久遠をもうけるという望ましい未来を紡いだのだと。これについては改変前・改変後共通の要素である「そして2人は出会った。」があればこそでしょうね。


監督が公言しているように本作品は「勇者ライディーン(1975年制作)」のオマージュであり、セカイ系(?)に分類されることから、放映当時はしばしば「新世紀エヴァンゲリオン(1995年制作)」と比較されるという、単独作品として楽しんでいた視聴者からすれば「余計なお世話」で評価を下げた観がありました(エヴァはいったい何を目指して焼き直しをつづけているんでしょう?)。

「難解さ」は時に「不親切」と言われ、一方で視聴者に「想像の余地を与える」とも言われます。しかしながらアニメだろうが小説だろうが演劇だろうが、そこに「人間」が関わる限り、すべてが明快なものは存在しないはずです。小説の世界ではよく「読者が書き手を育てる」と言われるように、作品に込められた想いや考えを読み解く力量をわれわれ受け手も備えておかなければ、良い意味での両者の関係は成り立たなくなってしまいます(昨今、権威ある作家賞の質が落ちたと言われるのも、書き手だけでなく読み手の質が落ちたからでは?)。

単に登場人物に感情移入できるから、というだけでなく、作品全体をとおして何かしら考えさせてくれる。アニメという手法において、「ラーゼフォン」という作品はわたしにとっていまだに魅力的な存在です。