月刊少年マガジンにて好評連載中の「ましろのおと」。羅川真里茂(らがわ・まりも)女史の初少年誌連載で、津軽三味線奏者の主人公を中心としたストーリーです。少女誌連載の「赤ちゃんと僕」から「しゃにむにGO」と来て、急に地味な(失礼)題材だな、と思いきや、東北出身の作者の熱い想いが伝わってくるような、すばらしい作品です。
このたび、単行本第10巻が発売されました。前巻の第9巻より、主人公の沢村雪(さわむら・せつ)は通っていた高校を退学し、民謡酒場「竹の華(たけのはな)」に三味線奏者として勤めることとなります。他の個性的な店員との遣り取りのなか、「客」の相手をすることに悩み苦しみながら自分なりの「音」を見つめてゆく、本巻にもその流れが引き継がれています。そして、それまで曲弾き(主に独奏)しかしてこなかった雪が、唄付け(伴奏)を依頼されます。先述したように、「唄い手」に合わせようとするあまり自分の音を見失う雪。本巻ではその泥沼から抜け出すきっかけを得る、静かでいてなかなかに熱い展開でした。
そもそも「唄付け」を依頼された理由は、パートナーである沙上麻仁(さじょう・まに、プロ歌手)が民謡大会でタイトルを獲るために、雪の伴奏を欲したためです。その大会では津軽五大民謡をクジ引きでチョイスし、歌唱力を競うという形式でした。そのなかで麻仁がもっとも苦手としたのが「三下り(さんさがり)」という唄。とても短い歌詞を、唄い手が声ののびと節回しだけで3分を超える唄へと仕上げます(ほぼ原文ママ・汗)。唄い手・伴奏者ともに技量を問われるわけです。
そのときふと思いました。1990年代の後半、バブルの崩壊で一度は低迷したダンス系のミュージックが席巻して以降の、所謂「イマドキの音楽」の傾向として、とにかく速いテンポの楽曲に歌詞を詰め込んで唄いあげる、という手法(?)が定着しているのでは、と。奇しくも2000年代はITブームで、紙でできた分厚い本の内容を瞬時に地球の裏側まで送ることができるようになり、何かにつけてスピードが求められる時代となりました。ハードウェアの進歩はめざましく、それを扱う人間にも多くの情報を瞬時に読み解く能力が求められています。しかし本当に、投げ手も受け手もそれだけ多くの情報をスピーディにかつ余すところなく処理できているのでしょうか。
世のなかで、こと他人に感動を与える手段として、わたしは小説や詩などの書き物が、受け手にとってもっとも不親切で寛容だと考えています。絵画や写真は視覚に、音楽は聴覚に、料理は味覚・嗅覚にそれぞれ直接訴えかける要素が濃く、つまりは投げ手の思惑が通り易いと考えるからです。極論すれば、投げ手が受け手の感覚を支配するとも言えます。
わたしは普段、好んでJ-POPを聴くことはありません。テレビを点けていて、あるいはお店のなかなどで流れているものを自然と耳にしている程度です。それでも、BGMぐらいの感覚で聴き流せていればよいのですが、時折胸の奥にモヤモヤしたものが湧くことがあります。耳に心地の良くない、ではなく漠然とイヤな感覚が湧き起こるのです。それは恐らく、先述したような、受け手に優しくない、押しつけがましく一方的な、それを自己主張と勘違いした表現に対する嫌悪感なのでしょう。
少ない要素、少ない情報でも時間をかければいくらでも想像の翼を広げることはできます。「三下り」のように短い歌詞でありながら唄い手と伴奏者の技倆次第では、オーケストラによる交響曲ばりの雄大な表現ができるのです。要はバランスの問題なのです。もし、現代の音楽がテンポばかり先走って、歌詞の内容を十全に供給できない状況があるのなら、より簡潔でわかりやすい言葉を並べるのが妥当でしょう。しかしそれは受け手に対する親切どころか、受け手の咀嚼力を低下させることにしか繋がりません。そのうえで自己主張ばかりを押しつけて、果たして聴き手は満足できるでしょうか。
劇中、雪は唄い手を顧みない、自己中心的にしか音をはかれない欠陥奏者と痛烈に批判されます。独奏者として技術を突き詰め、聴き手の感覚を支配してしまう「天才」の域にまで昇華した音であればそれも許されます。ですがそうでない投げ手は、やはり受け手をないがしろにはできません。そこには一蓮托生、共生関係があるのですから。
ハードウェアの向上、情報通信の高速化がめざましい昨今、われわれはそのスピードと情報量に見合う存在であるでしょうか。技術や好みの問題で悩む雪に「祖に還れ」という言葉が投げかけられます。作中の意図とはまるで異なりますが、音楽の世界でも少しスローテンポに落として、過去を振り返る余裕があっても良いように思います。今回は偶然、民謡を題材としましたが、それぞれに「祖」とする音楽があるはずで、そこからまた、受け手としての感性を鍛えられる可能性があるのではないのでしょうか。